「万引きに代わるものはない」ことを受け入れる
なぜ犯罪行為である万引きに依存してしまったか、それは万引きでしか得られない何かがあったからです。
万引きでキメていた
万引きにハマっていた、それには理由があります。万引きでしか得られない、何とも言えない感覚があったからです。完全にハマっていて、「no shiplifting, no life!」(万引きのない人生なんてありえない!)くらいの感覚になっていました。四六時中万引きのことを考えていました。そして、万引きが成功した時の感覚に代わるものはないと、今でも考えることがあります。その感覚をまた味わいたいとは思わないのですが、あの感覚が忘れられないことは確かです。
万引きにハマっているときでも、捕まることへの恐怖・不安、隠し事をしているうしろめたさなど、トータルで考えれば苦しさの方が強かったです。今になればそう思います。でも、万引きの瞬間だけを考えれば、他では得られない何とも言えない感覚があったのです。だからこそ、その後の苦しさがあるとわかっていてもやっぱり盗ってしまっていました。犯罪行為、やってはいけないこと、そうわかっていても止められませんでした。そして、盗っていた頃は盗っている方が楽だと思っていました。それは万引きでしか得られない感覚にどっぷりと依存していたからだと思います。薬物依存の場合など、薬物(特に麻薬)を使用した時に効果が表れて気分が高揚することを「キマる」と言ったり、薬物を使用して高揚状態を作ることを「キメる」といったりします。これは脳内に快楽物質が放出された状態です。クレプトマニアなどある行為に依存するプロセス行為依存でも薬物依存などと同じように、行為を行った時に脳内で快楽物質が放出される回路が作られると考えられています。つまり、万引きをすることで「キメていた」わけです。
そしてこの感覚は脳に回路が出来上がってしまっている以上、一生消えません。あの「やめなきゃいけないのにやめられない」という苦しい状況には戻りたくないし、戻ってはいけないと心底思っています。でも、わたしの脳は万引きで得た快楽を記憶しています。だからこそ、今でも万引きで得ていた感覚を思い出してしまうことがあり、それが依存症は完治することがないと言われるゆえんなのだろうと感じています。なくすことができない回路、だからこそこの回路のスイッチを入れないことが必要になります。
打ち出の小づちなんて、ない
万引きをしているときは、お金を減らさずにモノが手に入りました。枯渇恐怖、お金が減ることに強い恐怖感を持つ人にとって、これは普通の人からは想像もできないほど魅力的なことです。欲しいものが手に入るのに、お金は減らない。ある意味、打ち出の小づちを持っているような感覚でした。その時の満足感・達成感、そして周りの人はお金を払ってものを手に入れているのに自分はお金を減らさずにモノが手に入る優越感、さらに背徳感もありました。そんなものが相まって「キマッた」感覚を得ていたのだと思います。でも、打ち出の小づちなんてないんです。窃盗という加害行為、自分の快楽のために被害者を生んでいるのです。こんなことを続けていいわけがありません。
置き換えには限界もある
万引きを手放すために、万引きで得ていた満足感や達成感などを得られる他の方法を探すことも大切です。万引きに置き換わるものを探すというものです。わたしの場合、万引きの置き換えとして「お得な買い物をする」という方法を使っています。「お店でしっかり吟味して、お得感のあるもの・割引品を買う」、「帰宅後に買ってきたものとレシートを照らし合わせ、「割引品が買えた!お得な買い物ができた!」とニンマリしながら達成感を得る」というものです。これにより、お金が減るのが怖いという枯渇恐怖の軽減を図っています。
でも、いくらお得な買い物をしてもお金が減らないわけではなく、完全に万引きに置き換えられるほどのものにはなっていません。そしてちゃんと買っているので、万引きの時のスリルや達成感、背徳感みたいなものは得られていないというのが正直なところです。やっぱり本当の意味で万引きに代わるものはない、万引きと並ぶものはないんじゃないかと思います。置き換えには限界がある、それは受け入れるしかないです。
わたし自身、置き換えには限界がある、万引きに代わるものはないと受け入れられたことで、開き直ったというか諦めがつきました。打ち出の小づちなんてあるわけないんです。置き換えることだけに活路を見出すのは限界があります。
置き換えについてはこちらに書いています。
万引きに逃げたくなるほどの状況に追い込まない
万引きに代わるものはない、だから万引きしてもよいということではありません。今後、万引きをしないように努力しなければなりません。ではどうすればよいか?それは、万引きに逃げたくなるほどの状況に追い込まれる前に手を打つということだと思います。
依存行為を行うのは、それによって快楽を得るということ以上に、苦痛から逃れることを目的にしていると考えられています。痛みを抱えながら日常を生きていくことが困難なほどの状況に追い込まれてしまったときに、依存行為で苦しみを紛らわそうとしてしまうのです。依存行為をこころのケア・ストレスの発散方法として使っている状態です。依存行為に頼らないようにするためには逃れたくなるほどの困難な状況に追い込まれないようにすること、追い込まれる前に苦しさから逃れるスキルを身に着けることが必要になってくると思います。モルヒネ(麻薬)のような強い痛み止めを使わなくてはならなくなる前に、効果が弱い痛み止めでも作用するうちに手を打てるようになることが大切です。ギリギリまで追い込まれる前であれば、依存先の置き換えや分散は十分に機能するはずです。
脳内に形成されてしまった快楽の回路にスイッチを入れないためにも、苦しい状況に追い込まない方法を見出していく必要があります。それは一人でできることではないと思います。苦しい時に早めに助けを求められる環境を作ること、そして「辛い、しんどい」と愚痴るなど弱さをさらけ出せる自分・助けを求められる自分になることが大切なのではないでしょうか。
依存行為以外のセルフケア方法を身に着ける
依存行為にハマっているときは、それをセルフケア・ストレスを減らすために利用している状態になります。何とか依存行為を手放したとしても、他のセルフケア方法を身に着けていないとまた依存状態に戻ってしまいやすいと言えます。「依存行為がやめられないときも、ストレスなんて感じていなかった」、そういう人もいるかもしれません。そのような場合はストレスがなかったのではなく、感じられていなかったのだと思います。こころが苦しくなっていることに気が付くことができず、対処できないうちに依存行為に走ってしまった可能性が高いです。まずはこころが苦しくなっている状況に早く気が付けるようになること、そしてそれをケアする方法を身に着けることがとても大切です。簡単に言えばストレス発散方法です。ストレスをなるべくため込まない、ため込んでしまってもその状況に早く気づく、ため込んでしまったら発散する、この循環がうまくいけば依存行為に頼る必要性はなくなっていくのだと思います。
ある依存症専門医は「依存行為は人に癒されず生きにくさを抱えた人の孤独な自己治療」とおっしゃっていました。依存行為以外のセルフケア方法として、人とのつながりはとても重要だと言えそうです。
万引きは強力な痛み止め、副作用も大きかった
わたしにとって、万引きは強力な痛み止めでした。今でもその効果は記憶に残っていますし、これからも忘れることはないと思います。一方で副作用もたくさんありました。でも、その痛み止めの効き具合に酔いしれていました。やめられた今、その副作用の大きさに気が付きます。消えない副作用、仕方ないとはいえ、今更ながらしんどくなります。
もう二度と万引きという痛み止めに頼らないようにするために、効き目が弱くてもいいから痛み止めをたくさん持つことが大切なのだと思います。効果は弱いかもしれませんが、副作用も少ないです。そして何より、弱い痛み止めでも効くうちに痛みに気が付けるようになること、これが本当に大事だなと感じています。あんな強力な痛み止めはない、でも副作用も強い。副作用の方がよっぽど大きいのです。やっぱり使ってはいけない、使いたくないのだから、使わなくて済むように生きていく。そこに注力したいと思います。
関連する項目はこちらです。
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